落語「二番煎じ」の舞台を歩く
八代目三笑亭可楽の噺、「二番煎じ」(にばんせんじ)によると。
江戸は火事ばやい所で、江戸名物として「武士鰹大名小路広小路、茶店紫火消錦絵、火事に喧嘩に中っ腹」なんて言われた。火事が入っていて、非常に火事早い所だった。明暦の振り袖火事や、明和の行人坂から出た火事は江戸中を焼いたくらいです。
火事の夫婦が相談しています。こんなに消防が発達すると燃え上がることも出来ない。いっそ田舎に行って燃え上がろうと相談が決まった。それを聞いていた子供が「ボヤも行くよ」。
当時番小屋に番太郎がいて夜回りしていたが、ルーズなことから旦那衆が回ることになった。しかし、これも回らないことがあったので、役人が見て回った。
番小屋の旦那衆は、班を二つに分けて、交代で回ると寒い思いも少なくて良いので、私は先の班の長になって回ります、と言うことで
第一班が出掛けた。
寒(かん)の冷え込みは身に応えると言いながら歩き出した。拍子木は寒くて袂で鳴らしている。金棒は冷たいので紐を持って引きずっている。「火の用心」の声も出ない。出れば、唄いになってしまうし、浪花節や吉原のやり方だと勝手なこと。
番小屋に戻ると、炭を焚いて暖まり始めた。が、酒を持って来る者や猪肉を持ってくる者がいる。酒は土瓶に入れてお茶だと燗をし、猪肉はネギと味噌で鍋にした。旨そうに飲んで鍋を突いている。だんだんと酔いも回って気分も最高。
バン、と聞こえた。「横町の犬が匂いを嗅ぎつけてきたんだよ」。「バン番」、「シッシッ、うるさい犬だ」。「番番」、「あっ、いけねェ。お役人だ」。
「そこをお開けよ。ご苦労様です(ろれつが回らない)」、「回っているか」、「只今戻ってきました。今、次の番が回っています」。「番番と言ったら『シッシッ』と言ったのは何だ」、「あれは惣助さんで・・・」、「およしよ、
私の名前を出すのは」、「『シッシッ』とはシ(火)が起こっているかと聞いたのです」。
「土瓶のような物をしまったが・・・」、「あれは惣助さんで・・・」、「およしよ、私の名前を出すのは」、「風邪で咳き込んでいる者がいるので、風邪の煎じ薬をいただいておりました」、「拙者も風邪を引き込んでいるから」と所望し、煎じ薬を飲み干した。
「先ほど鍋のような物を片づけたが、アレは何だ」、「あれは惣助さんが・・・」、「およしよ、私の名前を・・・」。ではと言うので、股下から鍋を出して、振る舞った。煎じ薬といい、口直しといい、結構なものだから毎夜持参しろと言う。
何杯もお替わりをされた。残りが気になったので、「これでお終い」だと断った。
「なに!無い。仕方がない。拙者もう一回り回ってくる間に、二番を煎じておけ」。
この噺は直接的な舞台になる場所はありませんが、火事に関する噺ですから、マクラの江戸の三大大火について歩きます。
1.江戸三大火事
1.明暦の大火(明暦3年、1657)1月18〜19日、俗にいう振り袖火事。2日間3回にわたって出火し北西の強風にあおられ燃え広がって江戸の姿を一変させた。江戸城本丸
および天守閣(以後再建されなかった)をはじめ、開府以来の桃山風の豪壮な武家屋敷があらかた焼けた。大名屋敷500家、旗本屋敷770家、神社仏閣300、橋61、町地1200町(町屋の3分の2が焼失)が燃え、死者10万7千人と言われる。
(延焼範囲;下図)江戸史上最大の火事でもあり、世界的にも最大の火事とされている。
この時、かの松尾芭蕉も深川で逃げまどっていました。
その上、翌日21日は大雪となって、凍死者まで出る大惨事となった。
「明暦大火延焼時刻と風向きと被害範囲」 江戸東京博物館蔵
では、なぜ振り袖火事と言われたか。
浅草の大増屋十右衛門の娘に、十六になるおきくがいた。上野へ花見に紫縮緬(ちりめん)の振り袖を着て出掛け、道で出会った若衆に一目惚れ。それが元で床に伏して病死した。当時、若い娘が死んだときはその振り袖を寺へ納めるのが習慣だから、この紫縮緬も菩提寺の本郷丸山本妙寺に納められた。それが古物屋に出て別な十六才の娘が買い、程なく病死。その後、また別な十六才の質屋の娘が質流れになった紫縮緬の振り袖を着たところこれも病死。3人とも、菩提寺は同じで、葬式も3年続いて正月16日。不思議な運命を恐れた親たちが集まって、供養をして振り袖を焼き捨てようとすると、一陣の風が起こって、振り袖は天高く舞い上がり・・・。それが元で大火になった。
この話も俗説で真実はこんな芝居がかった話ではなかったようです。当日は雨戸を閉める程の強風が吹いていたので、火を焚くようなことは事は常識的に考えられません。
(この項次の章で詳しく書きます)
2.明和の大火(明和9年、1772)2月29日昼
〜30日 行人坂の火事とも言われた。目黒行人坂の大円寺より出火、強風にあおられ千住まで焼く。暮れ方本郷丸山からも出火根岸まで延焼、翌日昼やっと鎮火した。窃盗目的の放火と判明。以後、表通りの建物は土蔵造り、瓦葺きの屋根にさせた。年号から「めいわくの火事」と言われ、このため年号を「安永」と改めた。
江戸930余町(江戸の3分の1)焼失。死者1万4700余人を出したという江戸史上2番目の火事。(延焼範囲;右図)
3.佐久間町火事(文政12年、1829)3月21日
神田佐久間町の材木小屋から出火。江戸下町の中心部を焼いた。江戸史上3番目の火事。死者1900人。
3番目は、各説あってまちまちです。焼死者の数で言うのか、焼失面積で言うのか、被害金額で言うのかによって、変わってくるのでしょう。候補として、次の大火があります。
文化の大火(文化3年、1806) 丙寅(へいいん)の火事。芝・車町(港区高輪2、泉岳寺がある周辺)から出火、浅草まで延焼。530余町を焼き、1200名の死者を出した。
大圓寺説明版にあるこの火災の説明に車坂から出火とありますが、それは間違い。車坂は上野山下にありました。
大部分の大火事は乾燥し季節風の強い冬に集中しています。
延焼地図は「火との斗い」江戸時代編 竹内吉平著より
引用
2.本妙寺と明暦の大火
明暦の大火は通称振袖火事とも呼ばれ、史上最大の火事で歴史上では本妙寺が火元とされている。
しかし、本当は本妙寺は火元ではない。
幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。理由は、当時、江戸は火事が多く、幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、当山に対しては一切お咎めなしであった。
それだけでなく、大火から三年後には客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興し、十年後には当山が日蓮門下、勝劣派の触頭(ふれがしら。幕府からの通達を配下の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願、諸届を上申達する役)に任ぜられている。
(吟醸注;大圓寺では76年間再建が許されなかった)
これはむしろ異例な厚遇である。さらに、当山に隣接して風上にあった老中の阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が大正12年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。
この事実からして、これは一般に伝わる本妙寺火元説を覆するものである。(大火の供養料なら、大火後幕府が犠牲者のために創立した両国の回向院へ奉納すべきである。)
大火の当日は朝から北西の強風が吹き荒れていたことは記録により明らかであり、真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である。(吟醸注;上記、切り絵図(地図)は右が北です)
老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたのである。そして、その結果として阿部家を失火の責任から救うということになり、それに対するお礼と解するのが妥当である。
「この項、本妙寺縁起」より
上記火元汚名説の詳細がここにあります。本妙寺と明暦の大火再考(PDFファイル)
3.行人坂火事と大圓寺(だいえんじ
、目黒区下目黒1-8-5)
大圓寺は天台宗、松林山。開山、寛永元年(1624)湯殿山の修験僧大海法師。明和9年(1772)大円寺から出火、折からの強風にあおられ大火となった。その火事を「行人坂の火事」と言います。その供養の為五百羅漢の石仏群
が作られました。嘉永元年(1848)まで再建が禁じられていた。八百屋お七で知られる吉三の像があります。
図版;名所江戸百景より「目黒太鼓橋夕陽の岡」 広重画
目黒川に架かる太鼓橋と左に行くと行人坂。左側の岡は夕陽が丘で、晩秋の紅葉が夕日に映えて美しかったのでその名があります。絵の中の岡は明王院の岡で、キツイ坂の隣りに大円寺があります。絵の右下の屋根はお汁粉で有名な「正月屋」は今は無い。
4.番小屋
江戸各町の自身番に属した詰所。町民が交替で夜番した。番屋とも。
写真左の番小屋の屋根上に火の見が乗っています。長屋の入口にあって、この小屋の中で猪鍋や煎じ薬をやっていたのでしょう。
こんな小さな小屋ですから、隠す場所もなく股下に熱い鍋を隠す羽目になってしまった。
火の見には半鐘が付いています。番小屋の脇には水樽や竜吐水
、ハシゴが置いてあります。
■竜吐水(りゅうどすい);消火用具。大きな箱の中に押上げポンプの装置を備え、横木を上下して、箱の中の水を吹き出すようにしたもの。実際には火消しではなく、纏や仲間に水を掛けて援護した。水は2階の屋根に届くのが精一杯であった。
写真;左;「常火消しの番小屋」、右;「竜吐水」。四ッ谷・消防博物館展示品
■江戸時代の破壊消防を描いたジオラマです。ジオラマの構成上右側から左に見てください。
目黒行人坂火事絵は、江戸・三大火事のひとつである目黒行人坂の大火を描いた絵巻物です。国立国会図書館に貴重書として所蔵されています。これは、それにもとづき作成さたジオラマです。
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4.屋根上の天水桶から水を蒔いてる下では避難が始まっています。 |
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3.火消しが纏を先頭に鳶口、竜口水を担いで火事場に向かっています。 |
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2.商家では藏に目塗りをし、家財道具を運ぶ人と火消しが走り出します。 |
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1.火事を発見して半鐘を鳴らし、人々は駆け出し始めます。
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8.完全に引き倒された家屋。
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7.ヒサシの瓦は落ちて、左下では柱を倒す為、ロープを引き始めています。 |
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6.井戸から水を汲み上げ竜口水に水を補給しています。
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5.火消しが破壊のため瓦を落としています。家人らしき人物が頭を抱えています。 |
四谷・消防博物館展示品、それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
(インターネットの仮想)消防防災博物館に原画(復刻図)があります。
http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R204&ac2=R20403&Page=hpd_view
5.煎じ薬
薬用植物などを干して乾燥状態になったものを、金気を嫌うので土瓶で煎じます。最初に出た薬液は一番煎じと言って、効能たっぷりなものが抽出されます。でも、お茶と同じように二番を煎じてもまだまだ効能成分は出てきます。そこで、二番を煎じさせたのです。なかには千回煎じても効能成分が抽出されるセンブリなんて言うものもあります。
これは煎じて健胃剤とします。
風邪にはこの薬でしょう。葛根湯(かっこんとう)です。葛根を主材とし、麻黄・生姜(ショウキョウ)・大棗(タイソウ)・桂皮・芍薬・甘草を煎じつめた漢方薬。悪寒・口渇・身熱・悪風・肩凝り・下痢・嘔吐などに用いる。何と言っても何にでも効くという万能薬がこれ、落語国では風邪から眼病、腹痛お見舞いに来た人まで盛るくらいですから。
6.武士鰹大名小路広小路、茶店紫火消錦絵、火事に喧嘩に中っ腹
・ 武士;江戸は行政の中心地でしたから武士=侍は他から比べて多かった。
・ 鰹;初物大好き江戸っ子ですから、初鰹は女房を質に置いても一番で食した。
・ 大名小路;江戸の土地の7割を占めた武家屋敷です。東京駅前丸ビル東を南北に走る道路名。
・ 広小路;江戸は火事ばやかった。延焼防止に要所要所に広い道幅の道路を造った。
・ 茶店;江戸っ子は季節の花見、虫聞き、潮干狩り、参拝等々に遊んだ。その為の喫茶店。
・ 紫;江戸紫。歌舞伎の助六がしめている鉢巻きが江戸紫。
・ 火消;大名火消し、定火消し、町火消しの順で整備され、江戸の消火体制が整った。
・ 錦絵;あずま錦絵。華麗な多色刷浮世絵版画。春信・清長・歌麿・豊国・北斎・広重等が活躍した。
・ 火事;火事によって江戸が大きくなったと言われる程、火事が多かったし、住民に多大の影響をあたえた。
・ 喧嘩;火事、祭礼、劇場などでメンツをかけて、武士から、火消し、町人までグループ同士がやりあった。
・ 中っ腹;職人集団や商家では、大飯では仕事が出来ないので、小食であった。
おやつや間食が多く、すし、そば、天ぷら、おでん等が好まれた。大飯ぐらいは田舎者とされた。
また、気みじかで威勢がよく喧嘩ばやいこと。また、そのことばや行動やそういう人。また、そのさま。
またまた、ちゅうっぱらと書き、ちゅうは仲、はらは原、吉原のこと言ったという説もある。
江戸の名物を別な言い方で、
『武士鰹大名小路生鰯、茶店紫火消錦絵、火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬の糞』 ・ 生鰯;江戸ではゲスな魚と言われたが、庶民は一年中おおいにこの魚を食べた。それも生で買えた。
・ 伊勢屋;商人は伊勢、上方から江戸に店を出した。伊勢屋の屋号は目立った。現三越の越後屋も伊勢の出。 ・ 稲荷;伏見稲荷から長屋の隅まで大小様々な稲荷があり、神社の半分以上は稲荷だった。
・ 犬の糞;五代将軍家綱は犬公方とも言われ、犬を殺生することを禁じた。ために街中犬が闊歩しその結果・・。
では各地の名物をあげてみると、異説いろいろありますが、
大坂では 「船と橋、お城惣嫁(そうか=路傍の売春婦)に酒蕪(かぶら=かぶ)、石屋揚屋に問屋植木屋」。
「橋に船 お城芝居に米相場 問屋かき船石屋植木屋」
かき船;冬季、広島から大阪に来て繋留、その名物のカキ料理を営む屋形船。河岸に船をつなぎ、カキ料理その他を作って客に供する店にもいう。
京都では、 「水、壬生菜(みぶな)、女染め物針扇お寺豆腐に鰻松茸」。
「水壬生菜 女染め物 みっしゃばり 寺におりやに人形焼き物」
みっしゃばり;京都の三条にはみす屋針という裁縫の針の有名なのがあった おりや(織屋);織物製造を業とする家。はたや。
奈良では、 「大仏に鹿の巻筆奈良晒(さらし)、春日灯籠町の早起き」。
鹿の巻筆;江戸前期の咄本(はなしぼん)。5巻。鹿野武左衛門著。貞享3年(1686)刊。収められた笑話は江戸落語の基礎ともなる。
また、昔から奈良春日大社において祝詞、願い文等を書くのに神鹿の毛を用いて造られたと云われる筆は芯に鹿の毛を用い、外を御弊にかたどり五色に染めわけた毛を上毛として調製したもの。
奈良晒;遠く古事記の昔からあったが、麻織物の一級品としてその名が天下に知れ渡ったのは、江戸時代初めのこと。清須美清四郎という人が、桃山時代天正年間に、従来の晒法の改良に成功し、にわかに盛んになった。町の多くの人が携わっていたという。
「大仏に鹿の蒔筆 あられ酒 春日灯籠 街の早起き」
江戸時代鹿のえさ代が三千石あったという。
新潟では、 「新潟は後家と南瓜(かぼちゃ)と弥彦山、小千谷縮に牛蒡三条」。
では、仙台では 「わしが国さで 見せたい物は 昔しゃ 谷風 今、伊達模様」
この言葉には続きがあって、「ゆかし懐かし 宮城野信夫 浮かれまいぞえ 松島ほとり しょんがえ」。 仙台地方の民謡として化政期(1804〜1830)に唄い出された。
谷風;仙台藩・陸奥国宮城郡霞目村出身の元大相撲力士。第4代横綱だが、実質的な初代横綱。江戸時代の大横綱で、大相撲史上屈指の強豪。また、力量・人格の面で後の横綱の模範とされた。
宮城野信夫;浄瑠璃”白石囃”の宮城野・信夫姉妹の事。
伊達模様;江戸時代初期から元禄時代(1688〜1703)ごろまで流行した衣服の模様の総称です。刺繍や縫い箔や鹿の子絞りを併用した大型の模様で、粋で派手で豪華な模様という意味もある。
舞台の本妙寺、大圓寺を歩く
本妙寺、出火時は本郷丸山にありましたので、そこに出掛けました。現在地・文京区本郷5-15.16.17.18のあたりですが、新しい街並みと、それに並行して新しい道が走っています。旧の本妙寺はズタズタに切断され、餅焼き網の上のお餅のように敷地の上には縦横にラインのような焦げ後の道が走っています。
この地には後年、近代文学の発祥の地と言われるように、大勢の文化人が住んでいました。石川啄木、樋口一葉、坪内逍遙、徳田秋声、宮沢賢治、二葉亭四迷、竹久夢二、谷崎潤一郎、直木三十五、宇野千代、尾崎士郎、等々まだまだ数え上げたらキリのないほどの文士達が住んでいました。
今は静かな住宅地になっています。表にでれば本郷には東大がありますから、文士が住んで文教の街並みを感じさせます。
現在の本妙寺は豊島区巣鴨5-35-6にあります。JR巣鴨駅で降りると、そこは爺婆
(じじばば)の何と多いことでしょう。なぜって、ここにはとげ抜き地蔵で有名な高岩寺が有るからです。地蔵商店街はいつも高齢者で賑わっていますので、小朝師匠は”爺婆の原宿”だと言いました。言い得てますので、その言葉が一人歩きするぐらいです。また爺婆に混ざって多いのが女学生で、私立の女学校が多いせいでしょう。
この商店街は旧中山道でその先には旧板橋宿があり落語「阿武松」で歩いたところです。
表通りの白山通り(新中山道)を北に向かうと左側に上記のとげ抜き地蔵、その先の青果市場の豊島市場、その先を右に曲がると雑踏を忘れさせる本妙寺があります。
山門を入ると突き当たりに本堂があります。本堂の右脇を回り込むと明暦の火事供養塔があります。またここには名奉行・遠山左衛門尉景元の墓ほかに剣豪・千葉周作、囲碁家元・本因坊歴代の墓、棋聖・天野宗歩等々、多数の有名人のお墓があります。
大圓寺、
目黒行人坂に向かいます。JR目黒駅で降りて南に、行人坂に向かいます、と言うより目黒雅叙園に向かいます。『千と千尋の神隠し』の舞台であった八百万の神々が集う湯屋・「油屋」の舞台モデルで有ると言われる雅叙園には人の列が続きますので、その後に従います。キツイ下り坂が始まりそれが行人坂だと後で分かります。坂の中程左に祠があり、下った先にある太鼓橋の建設に携わった供養菩薩像が安置されています。そこから始まる塀が大圓寺の塀です。
入口を入るとこじんまりとした境内と昔ながらの木造の歴史を感じる本堂が正面に見えます。今日はたまたま甲子の祭りで、ご開帳になっています。重要文化財が並ぶお寺さんで歴史をひしひしと肌に感じます。本堂左側の五百羅漢石像群は五百数十の石仏群で崖を屏風のように見立てて並んでいます。
子供を抱いた母親の羅漢さんもいますから探してみてください。(ヒント、下の写真の中に写っていますが、小さくて・・・)
本堂右手の阿弥陀堂にはお七地蔵と西運上人の像が祀られています。
大圓寺の前の行人坂を下ると、左手に目黒雅叙園の入口が見えます。雅叙園の入口左にお七の井戸があります。ここが明王院の跡でお七の相方寺小姓吉三が名を改め西運上人となってここを基点として、目黒不動と浅草寺に一万日の行を行い、お七を成仏させ、行人坂を石畳にし、この下の太鼓橋を架けました。明王院は後に大圓寺に吸収され、その跡地は雅叙園の敷地の一部となっています。
行人坂を下りきったところに目黒川があります。そこに架かった橋が太鼓橋です。江戸の時代から浮世絵に描かれ、紅葉の時期には沢山の紅葉狩りのお客と、その先の目黒不動
(第36話「御慶」で訪ねています)に参拝する善男善女が渡っていきました。今の橋は平成3年に架けられた
真新しいものです。写真に見る、向こう側の欄干が終わった橋詰め(雅叙園側)にある椎の木は浮世絵にも描かれている木ですが、高さも切られ幹が割れて詰め物がされています。
この目黒川の上流に落語「目黒の秋刀魚」の爺々が茶屋が有ります。
左;本妙寺、右;大圓寺。 地図をクリックすると大きな地図になります。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
2008年2月記
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